こんばんは、たまこです。
今年もあっという間に桜の季節が過ぎました。
毎年隣りの公園の大きな桜の木が花を咲かせるのを楽しみにしています。
3階建ての家よりも高いところまで、盛大に咲き誇る桜の木です。
とりわけ最上部の枝の先端で、人知れず咲いている花がお気に入りです。
今年も会えたねと心の中で話しかけます。
どこか自分と重ねてしまうのです。
てっぺんに咲く花は、地上の私たちからはよほど空を仰ぐようにしなければ見えません。
普通に過ごしていたら視界には入らないのです。
誰にも目を向けてもらう事がなくとも、
空に向かって精一杯、枝の先端できっちり花開いています。
空に手を振るかのように、風にたゆたう姿に、毎年感動します。
毒親育ちの苦しさは、
大人になっても、なかなか他人に相談できるものではありません。
ましてや、幼い子供時代の私たちが、
他者が理解できるように、状況を説明するのはまず無理です。
ですから、
こんなに苦しいのは自分がどこかおかしいのだ、
悪いのは自分だ、
そんなふうに考えてしまいます。
悶々と、時間だけが過ぎていきます。
一方、外で友達と一緒にいる時の幼い私は、
常に精一杯のつくり笑顔をしていました。
心の中の苦しい気持ちとはチグハグに、ハッピーな表情を作って、
必死で生きていたのだと、今は思います。
枝のてっぺんで花開く桜は、
そんな幼い日の自分が、一生懸命笑っている姿と重なるのです。
あれは自分だ。
ふと、そう感じました。
てっぺんの桜に目をやる人がいないように、
私が苦しさを抱えていることなんか、
当時は誰も知る人はいませんでした。
毎年てっぺんの桜に会うたびに、
幼かった頃の自分に、頑張ったねと、
言ってあげます。
本当は、母と色々な話をしたかったのです。
友達のこと、
進路のこと、
仕事のこと、
結婚のこと、
人生の分かれ道で決断を迫られる時、
親身に聞いてくれる人がいたら、
どんなに心が落ち着いたことでしょう。
母は、娘の話を受け入れる心のゆとりがなかったのです。
心を通わせることはできなかったのです。
仕方のないことです。
毒親は、自分の抱える問題を解決していません。
解決しようとしているのにできないのではありません。
なす術なく、混乱したままなのです。
混乱で頭の中はいっぱいなのです。
だから他者を思いやる心のゆとりはありません。
娘の話にも、耳を貸すことができません。
聞いたところで、入っていかないのです。
きっと、意味もなく聞こえてくる、
雑踏の騒がしさのようなものでしょう。
仲の良い親子を見ると、羨ましいと感じます。
毒親育ちは、永遠の片想い。
でも、もう、フラれた相手を追いかけなくていいと思うのです。
失恋があるからこそ気づけることもある。
必死で生きてきた幼い自分を労いながら、
生き延びようではありませんか。
一緒に、前へ、進みましょう。
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